鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
水戸・弘道館などの地理・歴史を、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
弘道館の跡とへば
のこる千本の梅が香は
雪の下よりにほふなり
さらに読みやすく!
弘道館の 跡とえば
残る千本の 梅が香は
雪の下より 匂うなり
さあ、歌ってみよう!
♪こうどうかんのー あととえばー
♪のーこるちもとの うめがかはー
♪ゆーきのしたより におうなりー
仙台駅→(※注1)→岩沼駅→相馬駅(旧・中村駅)→原ノ町駅→浪江駅→双葉駅(旧・長塚駅)→富岡駅→木戸駅→広野駅→久ノ浜駅→いわき駅(旧・平駅)→内郷駅(旧・綴駅)→湯本駅→泉駅→勿来駅→大津港駅(旧・関本駅)→磯原駅→高萩駅→日立駅(旧・助川駅)→常陸多賀駅(旧・下孫駅)→水戸駅→友部駅→石岡駅→土浦駅→松戸駅→北千住駅→南千住駅→日暮里駅(※注2)
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※注1 仙台駅→岩沼駅は東北本線の区間
※注2 当時は田端駅が終端
水戸の弘道館 道を広めるための学校
前回は茨城県水戸市について少し解説しましたが、もう少し深掘りしていきましょう。
藩校の1つ「弘道館」
水戸市には、「弘道館」という、いわゆる藩校の1つがあります。
弘道館の名称は、歌詞にあるように(文武の)「道」を「弘」める(広める)ことに由来しているものと思われます。
そもそも「藩校」とは?
藩校とは、いわゆる江戸時代の武士たちが、武術のみならず、勉強などに勤しんだ学校のことです。
江戸時代になると、「天下泰平」といって、戦争や争いのない、平和な時代が続きました。
ただ、平和といっても
- 「明暦の大火」などの大火災
- 浅間山の噴火
- 日照り
などさまざまな自然的要因で、別のトラブルはありました。
なぜ藩校ができたのか 時代によって、求められるスキルは異なる
天下泰平の世の中になると、喧嘩に強い人よりも、頭にいい人のほうが重要視されます。
そもそも、時代によって「モテる」「強い」男性の基準は異なる
時代によって、どんな男が勝つか、モテるかというのは異なってくるのです。
例えば小学校のときは「足の速い男の子」がモテてきて、高校まではイケメンでスポーツが出来る人がモテてきましたよね。
しかし、社会人になると仕事ができて地位があり、なおかつ経済力がある人がモテますよね。
それと同じことです。
大昔は、とにかく大きくて強い男がモテた
ナウマンゾウと戦っていた大昔は、体が大きく強い男がモテました。
弱い男は簡単に獲物に食われたり、他の暴漢にやられたり、飢え死にしたりするので、女性を守ることができないのです。
弥生時代に入って稲作が定着すると、いかに田んぼを耕し、多くの米を生産できる能力ある人が勝ち、モテました。
それができない男は、簡単に飢え死にするからです。
また、作った田んぼや米は他の暴漢や盗人の被害にあう可能性もあるのでそれを防ぐ必要がありました。
それが徐々に武士の起源になっていったりもします。
武士の世では、武術に優れ、頭のいい人がモテた
平安時代の貴族の時代は、例えば先祖を辿っていけば初代天皇である神武天皇にたどり着くなど、元々の家系や血筋がよい人が偉いという時代でした(平安時代に限らず、この傾向は昔の日本では結構あり)。
そして、鎌倉時代に入ると、身分の高い人ではなく武術に長けた、武士の方が強いという時代になりました。
戦国時代に入ると、完全に力が強い人が生き残る時代となりました。
豊臣秀吉も、他の高貴な武将とは違い先祖が高貴というわけではなく、農民という出身でした。しかし、実力で天下人に這い上がった人でした。
現代では、「特殊なスキル」がある男性が勝つ時代へ
令和の現代では、いかに勉強し知識や社会経験を積み、個性をアピールできる人が勝つ世の中であり、そんな男がモテる時代になっています。
例えばスーツさんは、まさにそんな成功者であるといえます。
逆に、現代においていくら腕っぷしが強くても、喧嘩が強くても、人を殴ればあっという間に警察に連れて行かれるような時代です。
むしろ腕の強さを発揮したいなら、格闘家になるか、それを教えるYouTuberなどになる必要があります。
自衛官などの仕事も、体力勝負です。
時代のニーズを考慮し、能力を伸ばすことを目的とした弘道館
弘道館をはじめとする藩校は、そんな当時の時代の流れや変化、ニーズを汲み取った上でできた学校でした。
いくら天下泰平の江戸時代とはいえ、万が一戦争が起きたときは武士が戦わなくてはいけませんから、武士も武術の稽古はしなくてはなりません。
それと同時に、戦争がなくなると時代は強い人よりも頭のいい人を求めてきますから、藩校で武士に勉強を教えていたわけです。
「文武両道」というものですね。
※男性のことばかり書いてもアレなので、女性のパターンについても言及しておきます。
男性ばかりでなく、もちろん女性の場合も、時代によってモテる女性の基準は変わります。例えば、
- 昭和:家事がバリバリこなせる、専業主婦として優秀な女性。
- 平成:若くてカワイイ女性。男が隣に連れていて自慢できるような美人。
- 令和:共働きOKな、「手に職」のある、二馬力で家計を支えられる自活能力のある女性。
なぜこうなるのかというと、それは時代背景が大きく関係しています。
昭和の時代は、好景気で男性に十分な収入があり、また家電も発達していなかったため、大変な家事をバリバリこなせる専業主婦が求められました。
それが平成になると、男性にとっては「いかにカワイイ彼女を連れているか」がステータスになりました。逆に、非モテの弱者男性は馬鹿にされる時代でもあったのです。
令和になると物価高騰や不況もあり、また家電の発達により一家あたりの家事負担も減ったことから、共働きができる、安定した職に就いている女性が求められるようになったのです。やはり時代背景・状況によって、モテる・求められる異性というものは異なってくるわけです。
ある人にとっては残酷ですが、現代ではたとえ若さ・容姿・家事スキルに自信がない女性であっても、勉強・資格・仕事スキルに自信がある女性にとっては、むしろチャンスの時代でもあるわけです。
幕末に発達した「水戸学」
そして幕末になるに従って、「水戸学」という、日本の歴史や国に重きを置くような学問が発達します。
現在でいう「保守派」のような学問ですね。
そして「水戸学」は、幕末に開国を迫られたときに、「欧米列強に屈せず、これまでの天皇を中心とした国を守ろう!」という考え方に直結します。
これを尊王攘夷といいます。
「尊皇」とは、天皇陛下や日本の伝統を尊重し、「攘夷」とは外国からの影響力を排除しようとする動きをいいます。
尊皇攘夷のなかから誕生した「水戸浪士」
そして、尊王攘夷を抱えた武士の中からやがて水戸浪士というものが誕生し、幕末の様々な争いや戦いなどに発展していくことになります。
水戸浪士は鉄道唱歌の歌詞にも比較的出てきますので、それは別の機会にお話しします。
偕楽園に咲き誇る、たくさんの梅の花
歌詞には
雪の下よりにおうなり」
とあります。
これは弘道館に1000本もの多くの梅が植えられており、その匂いが雪の下から香る、という意味になります。
1000本とは、あくまで数が多いことの例えになります。
実際、弘道館には、約800本もの梅が植えられているとされています。
多くの梅の花が咲き乱れる弘道館の景色は、とれも壮観なものとなります。
水戸・金沢・岡山の「三公園」
なお、歌詞には(意外にも)出てきていないのですが、水戸には
の1つである偕楽園があります。
偕楽園は、「偕(みんな)で楽しむ」公園という意味で、江戸時代に作られました。
残り二つの「庭園」
また、残りの2つの庭園についてですが、
なります。
兼六園は、公園に必要な美しい要素を六つ兼ねている、と言う意味で名付けられ、江戸時代に加賀藩の前田氏によって作られました。
後楽園も、岡山の町に美しく癒されるような公園を作る目的で岡山藩の池田氏によって作られました。
偕楽園にも、約3,000本の梅が植えられており、弘道館同様に、偕楽園に咲き乱れる梅の花は壮観なものとなります。
水戸の憩いの場・千波湖
そして水戸には、千波湖という大きく綺麗な湖があり、市民の憩いの場となっています。

千波湖(茨城県水戸市)
千波湖は、元々は川だったのがせき止めされてできた「堰止湖」になります。
つまり、水戸市街地を流れる「桜川」という川がその大昔にせき止められてできたのが、この千波湖になります。
千波湖は、水戸駅から徒歩だと若干遠いですが、一つ隣の期間限定駅・偕楽園駅からであれば至近距離になります。
ただし、偕楽園駅は梅の花のシーズンである春限定の期間限定の駅なので、注意しなければなりません。
次回は、友部方面へ
水戸駅を出ると、次は友部方面へ向かいます!
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